2007年に安倍内閣の松岡利勝農水大臣が自殺したのは、記憶にまだ新しい。
彼の自殺は、現職閣僚の自殺としては、実に62年ぶりとのことだったという。
松岡大臣の自殺前には、ご存知の通り、事務所費問題、光熱水費問題、献金問題等数々の疑惑が浮上していた。
直接の動機は、むろん部外者にはうかがい知れぬことだけれど。
では、62年前の現職閣僚の自殺とは何だったのだろう?
62年前に自殺されたのは、阿南 惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣だった。彼の自殺は、松岡大臣のものとは、ずいぶんと違う。
人物探訪: 阿南惟幾~軍を失うも国を失わずというwebから彼の自殺の経緯を見てみよう。
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1.もしもあの時、一歩を誤って軍が暴走していたら、、、
昭和20年8月11日、外電が日本の降伏受入れ予想を報道 し始めると、支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は次のような激 烈な電報を陸軍中央に送ってきた。 数百万の陸軍兵力が決戦を交えずして降伏するが如き恥 辱は、世界戦史にその類を見ず、派遣軍は満8年連戦連勝、 ・・・百万の精鋭健在のまま敗残の(蒋介石の)重慶軍に 無条件降伏するが如きは、いかなる場合にも絶対に承服し 得ざる所なり 海軍の戦力はほとんど失われていたが、当時の陸軍兵力は内 地237万余、外地310万余。特に支那派遣軍は「満8年連 戦連勝」の状態で、いきなり無条件降伏せよ、と言われても 「絶対に承服」できないのは当然であった。 もしもあの時、一歩を誤って軍が暴走していたら、、、 または陸軍が抗戦派と和平派の二つに割れて友軍相撃とな り、そこへ米軍やソ連軍が入ってでも来たら、日本はどう なっていたことか、、、そしてどれほど多くの日本人が犠 牲になっていたことか、、、。そんなことにならずに済ん だのは貴様のおかげだ。よくぞ無事終戦に導いてくれた。 もと参謀次長・沢田茂中将がこう感謝するのは、終戦時の陸 軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)である。
ー略ー
7.反対の行動に出ようとするものは、まず阿南を斬れ
翌朝、阿南は各課の幹部を全員集めて、御前会議の内容を説 明した。御聖断によりポツダム宣言受諾という結果に、一同は 愕然とした。 私が微力であるため、遂にこのような結果になったこと は諸君に対して申しわけなく、深く責任を感じている。し かし御前会議の席で、私が主張すべきことは十分主張した 点については、諸君は私を十分信頼してくれていると信ず る。このうえは、ただ大御心のままに進むほかはない。 として、阿南は、和戦両様の構えで皇室保全の確証が得られ るかどうか、連合国側の回答を待つと述べた。さらに次のよう に、鋭く言い切った。 今日のような国家の危局に際しては、一人の無統制が国 を破る因をなす。敢えて反対の行動に出ようとするものは、 まず阿南を斬れ。
ー略ー
10.ポツダム宣言受諾への電撃的ショック
翌15日正午、昭和天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言 受諾が伝えられた。同時に全陸軍は阿南陸相の自刃を知った。 阿南が終戦処理を託した荒尾興功軍事課長は次のように述べる。 陸軍は昭和20年8月14日朝までは、戦争を継続すべ きであると考えていた。然しこの日から、ポツダム宣言受 諾の天皇の命令に即刻添わねばならぬことになった。この 天皇の命令に全陸軍が直ちに従うためには、単なる命令だ けでは徹底しない。電撃的ショックを必要とするのである。 全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最も つよいショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思 表示であった。之により全陸軍は、戦争継続態勢から、ポ ツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。それまで激烈 な戦争継続要請の電報が前線から来ていたが、ピタリと止 んだ。換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実 に伝える日本的方式であった。 かくて全陸軍内外550万の将兵が一日にして矛を収め、無 事に戦後の日本再建に向かう道が開かれた。「軍を失うも、国 を失わず」、阿南が14日夜、最後の閣議へ向かう時につぶや いた独り言である。
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むろん、さまざまな見方はあるだろうが、もし、上記の説明がほぼ正しいとするなら、阿南 惟幾 陸軍大臣の自殺は、日本を救った自殺だったといえるだろう。憂国のサムライ、そのものといえるのではないだろうか?
靖国神社には、今でも阿南 惟幾 陸軍大臣の血に染まった遺書が残されている。そこには、まさに裂帛の気合、武士の誇りがある。
現職閣僚の自殺。・・・62年のときを経て、日本人は、どう変わったのだろう?
62年前の閣僚の自殺の動機には、少なくとも、少なくとも事務所経費疑惑は、存在しなかったに違いない。
2008年8月24日日曜日
三島由紀夫の自殺
有名作家の自殺といえば、まず三島由紀夫の割腹自決を思い出す。
事件史探求のサイトから、少し引用しよう。
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昭和45年11月25日、世界的に有名な作家・三島由紀夫は自身で創った民兵組織「盾の会」メンバーの森田必勝ら5人を引き連れて、市ヶ谷にある陸上自衛隊東部方面総監部に侵入し、陸将の益田兼利総監を監禁状態にして立てこもった。これを阻止しようと総監室に入った中村二等陸佐は、三島の刀で左腕を切られて重傷を負うなど8人の自衛官が負傷した。その後、三島はバルコニーへ出て約1000人の自衛官の前で檄文の垂れ幕、びらをばら撒き「われわれは自衛隊を愛すればこそ憲法を改正するため、自衛隊が決起する事を願ったのに、自衛隊はわれわれの希望を裏切った。諸君は自分を否定する憲法を何故守るのだ」と約10分間演説をした。自衛官たちは三島に向かって「総監を解放しろ」「垂れ幕を回収しろ」など野次を飛ばした。これを見た三島は、自衛隊の決起は無いと判断、再び総監室に戻り、自身の刀で割腹自決をした。
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さて、三島由紀夫は、自衛隊の決起(クーデターか?)、憲法改正を目指したわけだが、これを政治的な主張と考えると、自衛隊の役割なり、憲法の役割なり、若干の誤解をされていたのかな、という気もしないではない。
一方で、この自殺を侍の美学と捉えると、より理解しやすく感じる。
この切腹という自殺の日本文化。敗戦を機に、日本からはほとんど消えたのだけれど、先日、死刑制度や終身刑制度の議論をしているとき、政治家が、日本の死刑というのは、「死をもってつぐなうという日本文化だ。終身刑は、あまりにも残酷だ」という発言をしており、え? こんなときに、日本の自殺の文化を聞くなんて、と大変に驚いてしまった。
いやそれにしても、自殺といっても、その裏には様々な背景があるものだ。
事件史探求のサイトから、少し引用しよう。
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昭和45年11月25日、世界的に有名な作家・三島由紀夫は自身で創った民兵組織「盾の会」メンバーの森田必勝ら5人を引き連れて、市ヶ谷にある陸上自衛隊東部方面総監部に侵入し、陸将の益田兼利総監を監禁状態にして立てこもった。これを阻止しようと総監室に入った中村二等陸佐は、三島の刀で左腕を切られて重傷を負うなど8人の自衛官が負傷した。その後、三島はバルコニーへ出て約1000人の自衛官の前で檄文の垂れ幕、びらをばら撒き「われわれは自衛隊を愛すればこそ憲法を改正するため、自衛隊が決起する事を願ったのに、自衛隊はわれわれの希望を裏切った。諸君は自分を否定する憲法を何故守るのだ」と約10分間演説をした。自衛官たちは三島に向かって「総監を解放しろ」「垂れ幕を回収しろ」など野次を飛ばした。これを見た三島は、自衛隊の決起は無いと判断、再び総監室に戻り、自身の刀で割腹自決をした。
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さて、三島由紀夫は、自衛隊の決起(クーデターか?)、憲法改正を目指したわけだが、これを政治的な主張と考えると、自衛隊の役割なり、憲法の役割なり、若干の誤解をされていたのかな、という気もしないではない。
一方で、この自殺を侍の美学と捉えると、より理解しやすく感じる。
この切腹という自殺の日本文化。敗戦を機に、日本からはほとんど消えたのだけれど、先日、死刑制度や終身刑制度の議論をしているとき、政治家が、日本の死刑というのは、「死をもってつぐなうという日本文化だ。終身刑は、あまりにも残酷だ」という発言をしており、え? こんなときに、日本の自殺の文化を聞くなんて、と大変に驚いてしまった。
いやそれにしても、自殺といっても、その裏には様々な背景があるものだ。
2008年8月22日金曜日
乃木大将の自殺
自殺には、自決なり、殉死も含まれるだろう。
殉死で有名なのは、乃木大将の自殺。あまり、注目されないようだが、ご夫人もまた、自殺されている。
乃木大将は、天皇に殉死し、奥様は、夫に殉死されたのだろうか。
ウィキペディアに乃木大将の項目には、殉死について、以下の解説がある。
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殉死とその影響 自決当日の乃木夫妻乃木は、1912年9月13日、明治天皇大葬の夕に、妻とともに自刃して亡くなった。まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木が割腹し、再び衣服を整えたうえで、自ら頚動脈と気管を切断して絶命した。遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた。このときに乃木は
うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり
という辞世を詠んでいる。
この事件は当時の社会にあってきわめて衝撃的にうけとめられ、結果的に死後乃木の盛名をさらに高からしめることになった。事件に対する態度は主として、
1.天皇に忠誠を誓う武士道的精神、軍人精神の極致として賞賛するうけとめかた
2.封建制の遺風による野蛮で時代遅れの行為として皮肉にとらえるうけとめかた
3.作戦失敗を繰り返し、多くの部下を無為に死傷させた、当然の結果といううけとめかた
4.古武士のような徹底した清廉な生き方を称賛するうけとめかた
の4種類に区分できる。生前から(4)の受け止め方は国民の間で主流であった。事件直後は(1)(2)(3)(4)が混在していたが、やがて大正デモクラシーの影響によって(2)の立場を取る側とそれに対抗して乃木を神格化しようとする(1)の立場が主流になる。昭和初年ごろから社会全体が右傾化してゆく風潮のなかで(1)が圧倒的な勢力を得たこともあった。戦後は、陸軍悪玉論や軍人に対する嫌悪感から(3)を支持する意見と、(4)を支持する意見がある。
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どの意見を支持するにしろ、それは、その人の人生観、価値観なのだろう。
乃木大将ご夫妻は、他人にどう受け止められようと、ご自身たちの生き方を貫いたのだ。
もし、乃木大将が、今の世、日本をご覧になったら、どうのように思われるのだろう?
憂国の涙を流されるのだろうか? それとも、大きく優しく、微笑まれるのだろうか。
自殺にも、実に様々なものがある。
殉死で有名なのは、乃木大将の自殺。あまり、注目されないようだが、ご夫人もまた、自殺されている。
乃木大将は、天皇に殉死し、奥様は、夫に殉死されたのだろうか。
ウィキペディアに乃木大将の項目には、殉死について、以下の解説がある。
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殉死とその影響 自決当日の乃木夫妻乃木は、1912年9月13日、明治天皇大葬の夕に、妻とともに自刃して亡くなった。まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木が割腹し、再び衣服を整えたうえで、自ら頚動脈と気管を切断して絶命した。遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた。このときに乃木は
うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり
という辞世を詠んでいる。
この事件は当時の社会にあってきわめて衝撃的にうけとめられ、結果的に死後乃木の盛名をさらに高からしめることになった。事件に対する態度は主として、
1.天皇に忠誠を誓う武士道的精神、軍人精神の極致として賞賛するうけとめかた
2.封建制の遺風による野蛮で時代遅れの行為として皮肉にとらえるうけとめかた
3.作戦失敗を繰り返し、多くの部下を無為に死傷させた、当然の結果といううけとめかた
4.古武士のような徹底した清廉な生き方を称賛するうけとめかた
の4種類に区分できる。生前から(4)の受け止め方は国民の間で主流であった。事件直後は(1)(2)(3)(4)が混在していたが、やがて大正デモクラシーの影響によって(2)の立場を取る側とそれに対抗して乃木を神格化しようとする(1)の立場が主流になる。昭和初年ごろから社会全体が右傾化してゆく風潮のなかで(1)が圧倒的な勢力を得たこともあった。戦後は、陸軍悪玉論や軍人に対する嫌悪感から(3)を支持する意見と、(4)を支持する意見がある。
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どの意見を支持するにしろ、それは、その人の人生観、価値観なのだろう。
乃木大将ご夫妻は、他人にどう受け止められようと、ご自身たちの生き方を貫いたのだ。
もし、乃木大将が、今の世、日本をご覧になったら、どうのように思われるのだろう?
憂国の涙を流されるのだろうか? それとも、大きく優しく、微笑まれるのだろうか。
自殺にも、実に様々なものがある。
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